サピア・ウォーフの仮説とは?
「サピア・ウォーフの仮説(Sapir–Whorf Hypothesis:さぴあうぉーふの仮説)」というのを、聞いたことはありますか?聞いたことがあっても、なくても、ちょっとここで、私の中途半端な言語学オタクっぷりを勝手に展開してしまおうかと思います。この仮説を聞いたことがあると、英語学習なり、言語学習に今までとちょっと違った光が差してくる気がするのです。
サピアとウォーフとは、二人の言語学者の名前で、とにかく私のお気に入りの仮説。言語的相対論(Linguistic Relativity)とかいう、ちょっと賢そうな名前までついた彼らの主張を少々雑にまとめると、「わたしたちの世界観・現実認識は、わたしたちの話している言語にものすごい影響されている」ということになります。
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かなり雑なまとめ方をしてしまって、サピア先生とウォーフ先生にお叱りを受けそうですが、どういうことかがもう少しわかりやすいように、具体例をあげてみたい思います。
例1)前後左右、東西南北、だけが方向じゃない
現メキシコの先住民、ツェルタル族のことばには「右」「左」が存在しない。それじゃあどうやって方向について話すのかといえば、彼らは村の一番標高の高い場所を起点として、そこに近いほうを「高いほう」、遠いほうを「低いほう」と表現する。「それがどうした」と思われるかもしれないが、なにがすごいって、今までに行ったことのない赤の他人の家のなかで、山の頂上がみえなくても、真っ暗な部屋のなかで、ぐるぐる回転させられても、その部屋の床が平でも、どっちが「高いほう」だかわかるのだ。
参考(Linguistic Relativity: Evidence Across Languages and Cognitive Domains)
「へえ、どっちかというとサピアなんちゃらよりも、その実験で原住民がぐるぐる回転させられてる姿のほうが面白そうだけどね」なんて思ってる場合ではありませんよ。よく考えたら、この絶対的方向感覚は、すごい。「レベル:神」です!この人たちは、青木ヶ原の樹海とかでも普通に帰還できるということでしょうか?
「高いほう」「低いほう」というのがツェルタル語のボキャブラリーにあることで、それを操る話者のひとたちは、必然的に小さいときから訓練されて、研ぎ澄まされた方向感覚を習得しているのです。
まだあります、興味深い例。
例2)緑色が見えますか?
このなかに、ひとつだけ違う色があります。どれだかすぐにわかりますか?(HTMLソースコードは見ないでください笑。答えは一番下。)
日本語話者や英語話者のひとたちは、すぐにはわからない人たちが大半です。じっくり見てもわからない人のほうが多いのではないのでしょうか?私の場合は、見れば見るほど、全部違う気がしてきました笑。
それほど微妙な色の違いしかないというのが私たちの感覚ですが、ナミビアに住むヒンバ族は、あっという間にどの緑が違うかわかってしまいます。
なぜでしょうか?
秘密は、ヒンバ族の言葉にある色のボキャブラリーにあります。実は彼らの話す言語では、上の例の一つだけ違う緑には、違う名前があるのです。
では次の具体例はどうですか?
別に馬鹿にしようってわけではないでんす!というのも、先ほどの「一見すごい色識別能力」をもったヒンバ族、こっちのほうは、なかなか識別できないんです!
彼らが青色を見つけられない理由は、そう、「青」と「緑」を表す言葉が一つしかないからです。私たちにはここまではっきり違う色の青と緑が同じ色に見えてしまうなんて、びっくりですよね。
言葉を話せない赤ちゃんに脳波計をつけて、さまざまな色を見せると、右脳だけが活発に動くのに対して、色とその名前を学習した子供に同じものを見せると、右脳と同時に言語処理に主に使用される左脳もかなり活発に活動するというのです。言語学って、こういう話を聞くとほんとわくわくしてしまいます。
興味のある方、ここでBBCのColour is in the eye of the beholder(色は見る人次第)という番組(英語)を視聴できます。
例3)1、2、の次は?
一、二、とくれば、次は三。そんなのは当たり前だと思ってませんか?
それは日本語や英語では常識ですが、地球規模でみれば、実は必ずしもそうとは言えないのです。
ブラジルの先住民のピダハン族には、数を数える単語がありません。彼らは量を、「ちょっと」「まあまあ多い」「いっぱい」として数認識するのです。
なんという大雑把さ!
テーブルの上に石ころを6つ並べて、ピダハン族に「同じように石を並べてください」と頼むと、彼らは5個並べたり7つ並べたりするそうです。
いい加減すぎる!!
ショッピングに行って、自分は靴下を3足千円で買ったのに、その横でおじちゃんが別のお客さんには4足同じ値段で売っていたら、「ちょっと待った」ってなりますよね?母語のボキャブラリーに数が存在しないピダハン族はそんなことは気にしません。それってある意味幸せかもしれませんね。
(この本のなかで、ピダハン族のお母さんたちは、自分が何人子供を産んだのかわからない、と書かれています。一方、「何人」という数はわからないけれど、子供の名前も顔もきちんと認識していて、ひとりひとりを愛する気持ちは変わらないし、数なんて大事じゃないんだ、と素敵にまとめられていて、なんだか少し共感してしまいます。日本で「私子供何人いたっけ?」言った人がいたら、間違いなくげんこつをお見舞いされます笑。)
ピダハン族については、キリスト教を布教にきた宣教師を無神論者にしてしまったなど、面白いエピソードがたくさんです。興味を持っていただけたら、ぜひ調べてみてください。
ここまで3つの具体例を見てきましたが、これらはサピア・ウォーフの仮説が具現化された例の一部です。日本語を話しているから、5と6は明らかに違う数だとわかるけれど、もし数字という概念がない言語を話していたら、私たちの世界観は、また違ったものになったでしょう。
こんなに明らかな例ではなくても、身近な例はたくさんあります。日本人の謙遜の心は、謙遜語を使用することで一層強くなりますし、英語を真に体得したときに、beautiful(美しい)ってこんな使い方をするんだと思う場面があって、あなたの美的感覚が変わるかもしれません。それから、英語等の言語と違って「はっきりとした未来時制(willに相当)」がない日本語の話者は、潜在的に未来のことを現実と同様にとらえるので、将来のために今お金を貯めたりするのが得意らしいですよ!
ほら、こうやってみてみると、言語学習って奥が深いなと思いませんか?
(一つだけ違う緑はどれ?の答えは、最後から二番目でした。わかりましたか?)